★マタギと歩く白神山地 マタギの工藤さんの主だったお話をまとめてみました。世界遺産歩くエコツアー 東京発/大阪発/名古屋発/静岡発/福岡発/広島発

ブナの森を歩くからこそ実感できたマタギの思想を、皆様が記憶する助けになり、皆様の自然への向き合い方に参考になればと思います。

マタギとは…

東日本を中心に分布する狩猟集団で、一般的にはクマ狩りの猟師として知られている。しかし実際は、クマの狩猟は冬眠あけの2週間しか行わない。その他は、鳥やウサギを狩猟し、山菜やキノコを採取する。白神山地のマタギは、古くからブナ林の生態系と深くかかわった山棲みの生活を営む人々のことをいう。必要以上に乱獲することはなく、自然との共生を大事にしている。夏には、農業も行っている。

 山の神は山のすべてを支配していて、山の神の怒りにふれないように、獲物を授けたりして、遭難をさけたりマタギを見守ってくれると信じられている。

 

 マタギは夏場、田畑や山仕事に従事し、猟期がくると男だけの組をつくり獲物を追いかけていた。マタギの頭領はシカリとも呼ばれ、頭領が指揮をとったとされている。シカリは経験・知識・統率力が優れたものが仲間内から選ばれていた。

白神山地のふもとの集落に生まれた工藤さんは50数年前、15歳の時から父親に山棲みの暮らしを仕込まれた。

熊狩りを始める前の晩に父親から、「光治、おれたちは動物が憎いから、殺すのではない。生きて行くために仕方なしに殺すんだ。我々は命をもらわなければ生きていけない。そのためなら情け無用で一息に殺してしまえ。鬼のような心になれ」と言われました。動物を殺すたびに鬼になる。また、鬼になる。(又鬼)だからマタギと言われている。

 

工藤さんのお話には命に対する向き合い方、生き方が表れていました。また、工藤さんの言葉だけではなく、その独特の雰囲気、たたずまいも魅力的です。

工藤さんはクマ猟のことを、「熊を獲る」ではなく、「熊を授かる」と表現します。

「この辺でホイドというのは、出し惜しみする人のこと。命ホイドはマタギになれないって言います」

マタギはクマを始め、他の命をもらうので、自分の命を惜しんではならぬという教えだそうだ。生命に関わる仕事だと伝わってくる。山が好きで修業に入っても、厳しさのために脱落し、1世代に一人くらいしかマタギとして残らないという。そうした厳しい日々をくぐり抜けてきた工藤さんは、生き字引のよう。ゆっくりと歩きながら、動物の生態、木々の性質の違いなど、聞けば次々と話が広がり、白神山地についてのその知識は果てしない。

 

100メートルほどの距離なら、10センチの標的をあてられると言い、木の枝に引っかかったクマをなかなか落とせなかった話を愉快そうにしてくださいました。

 

「5000年も人は森で生きてきた。森を守ってきた先人たちの想いを伝えたくて、私はガイドをしています」白神のブナの森の歴史は約8000年。白神山中の泥炭地をボーリング調査したところ、8000年前の地層から現在と変わらないブナの木片断面が発見された。ブナ林が形成された時期は縄文文化が始まった頃と重なり、人間とのかかわりの深さを思わせる。工藤さんらはこれまでダム建設で住居を2度移転しているが、昭和30年代初めまで住んでいたマタギ集落の近くでも、縄文前期の遺構が見つかっている。「そのマタギ集落自体、約1300年続いた集落でした。山で生活する者は昔から白神全域をフィールドとしてきたが、それで何かが特別に増えることも減ることもなかった。人間が山に入ってクマを狩らなくなることで、今とは違う白神になってしまう可能性もあります。」

マタギは山に入ると、かつては狩り場の近くに山小屋を造り、事前に炊事・生活用具等を運んでおり、みそや塩、野菜、干し物、餅、豆類などを持参し、普通7日から二週間程度熊を中心にウサギや鳥などを獲物に野山をかけずり回った。工藤さんは、猿も食べたという。白神山地が世界遺産に登録されるまでは、マタギ小屋があちこちにあり、獲物を一時保管したり、途中で休息を取りながら広域をカバーすることができたが、今は建築物は許されず、登山者と同様のテントを使い、1晩で撤収しなくてはならない。世界遺産地域全域が国の鳥獣保護区にも指定され、核心地域はもちろん緩衝地域でも、一切の狩猟が法律で禁じられた。マタギのクマ狩りは冬眠明けに行うのが伝統。この時期のクマが毛皮も胆のうも肉も最上だからだ。そして、クマが安心して冬眠できるのは世界遺産地域のみ。この法的規制により、マタギのゆえんであるクマ狩りが白神山地ではもうできなくなったとも同然と工藤さんは嘆く。マタギ文化を継続しようにも、制度によって断たれてしまう側面もある。

「山が仕事場の自分たちは入れると思っていた。ところが私たちも登山目的でないと入れなくなった。私に登山の趣味は無い。遊びなら入れるのに、仕事で入れないのはおかしい。クマもイワナも山菜もキノコもとれないのは山じゃない。山を私たちに取り戻したい」

 

マタギは山の恵をいただいてくる。象徴的なのがクマだが、春は山菜、夏は釣り、秋はキノコ、と1年中深い山と関わる。獲物によってそれぞれ旬というものがあり、マタギが猟をするのは山に雪がある冬眠明けのわずかな期間だけ。春は山菜、夏は川魚、秋はキノコを採って暮らし、特にゼンマイ、マイタケやナメコは大切な現金収入となってきた。また、自家消費用に田畑も耕す。「自分たちが生きていくために、他の命をもらいながら生きてきたのです。つまりマタギの暮らしは、基本的には山里の暮らしと変わりません。しかし、いったん山に入ると、普通の人では行けない奥地にまで入り込み、命がけでクマを狩る。勇気のいる仕事なんですよ」

工藤さんは、山、森を歩くときは、あらゆる人工的な雑音を避けようとします。そうすることで、五感をフル活用して、研ぎ澄まして、周りの状況を感じ取りながら、森の恵みを授かっています。

 

白神山地の最も山深い場所を領域としていたのが、工藤さんたち「目屋マタギ」だ。近隣のマタギ集団の中で仕留めるクマの数では抜きん出ていた。江戸時代は津軽藩のお抱えとして優遇され、クマの毛皮やクマの胆を藩に納める代わりに、お金や米を得ていたという。

 

私がマタギ集団に入った昭和30年代(1950~60年代)の白神山地は、まだ車の林道はなく、私の住んでいた里山からずっとブナの森が続いていました。クマ狩りを行なうのは、クマが冬眠から覚める春先です。私たちはまだ雪の残る厳しい山に入り、対岸にクマを見つけると、雪解け水の濁流を胸まで浸かって越えていきます。この時期のクマは毛並みがよく、漢方薬の「熊の胆(くまのい)」になる「胆汁」が、冬眠の間にたくさん胆のうの中にたまっているのです。

 

熊の肉の食べ頃というのは、冬眠から覚めた一週間くらいの間だそうです。その時期の熊の肉は美味しいそうです。熊から得られる収穫物は、毛皮と肉、そして胆汁だそうです。その三つが獲物として利用価値があるといいます。熊は、十一月半ばから四月半ば頃まで冬眠し、冬眠する時には、普段の体重の倍くらいになるそうです。それほど食い貯めして、約五カ月間冬眠する。冬眠の前に食い貯めするため、随分と山を歩く。だから筋肉が一杯つく。そして腹一杯食べて、五カ月間眠っている間に、その筋肉がほぐれて柔らかくなる。

ブナの実などの不作などで食い貯めできなかったメスのクマは、栄養失調のために冬眠前に自然と流産するそうです。

冬眠から目が覚めて、再びエサを求めて山を歩く時に出会い、その熊を仕留めることができればしめたものだそうです。冬眠している間に毛も伸びる。胆汁も十分出来る。肉も軟らかい。しかし、二週間も過ぎると、筋肉はもとの通りに固くなってしまう。 

 

マタギには、山で生活する上での習わしがある。例えば、熊を見つけて鉄砲で射止めると、まずその場所で神さまにお祈りする。そこには、「たたき場の神さま」がいるというのです。「たたき場の神さま」というは、昔、弓や槍がなかった時、石や棒でたたいて射止めたからいうのだそうです。その射止めた場所には、「たたき場の神さま」がいらっしゃるので、まずは感謝を捧げ、神さまに捧げた後に人間がそれをいただく。そういう慣わしを昔から持ち続け、大切にしてきました。そうしなければ山の神の祟りにあうと考えられてきた。この慣わしは厳しく守られているそうです。

長い間山で暮らした人たちは、どうしたら毎年同じ場所から、同じ量の山菜、きのこ、魚などがとれるのかを、経験して積み重ね、それを掟として守ってきたのです。その掟の基本とは、ただ一つ「欲張らないこと」です。誰も見ていな いからと、欲張ってそこにある物を採りすぎてしまえば、次の年には出なくなり、そこにいる人たちは生活できなくなるのです。

私たちは、山に入ると山の神様に見守られています。これは逆にいうと、見張られているということにもなります。で すから、山の神様の掟、約束を破ると山の神様の罰ばちが当たります。山の神様の罰ばちというのは、命を取られることです。命を取られてはたまりませんから、必ず約束を守ります。

山の神様はどこにいるかというと 、白神山地のどこを歩いても、山の神様という祠ほこらはありません。最終的には、 山に入る私たちの心の中に、山の神様は在ります。そうして、自己規制をさせているのです。

マタギの先輩たちが私に教えてくれた、白神のブナの森と共に生きていく方法 、この伝統文化は、これから、私が何一つ付け加えることなく、変えることなく、次の世代に譲っていけば、白神のブナはいつまでも守られていくものだと 思っています。

 

山歩きは、ほとんどがヤブこぎでした。なかなか大変でしたが、皆さん頑張りました。でも工藤さんに言わせればこれも「道」だそうで・・・。 工藤さんは地図を持って行かない。どこで下ろされてもわかると言うのを聞いてびっくりしました。

 山で暮らす人間は目的に応じて歩く山の道が違います。我々は危険な場所がどこなのか?を まず、先輩に教えてもらっていました。体で覚えているということです。春は熊狩り、初夏は山菜狩やぜんまいを取る。夏は岩魚を取る。白神の山々を縦横に歩 くことで、白神の地形が勝手に身についてくるのです。

 

マタギの人間は、山里に暮らす人間よりは強いが、熊よりも弱い。熊は白神の地域でドングリやクマノミが豊作な場所を知っている。我々は何をしても熊たちに太刀打ちできない。

例えば、熊狩りには何回も歩いた沢がある。その場所は熊狩りの時期(残雪がある時期)だけしか行かないので、夏場に降りることはなかった。9月に訪れた際、普段は残雪もあり、備え付けのロープを使って沢へ降りられる場所なのですが、残雪が全くなく、ロープなども届かなかったので沢に降りられないで困ったことがあった。しばらく周りを見渡していたとき、ふと見たら熊が山菜を食べた跡があった。友人が熊のルートがあるはずだと言い、探しに出かけた。30分ぐらいして戻ってきて、熊のルートを見つけ、我々はその道を使って沢へ降りることが出来た。

このような、頭の良い熊だが、たった一発の銃で倒れる。だからこそ、一発で仕留めないといけない。死体を見たら、今でも涙が出る。「次は自分だから・・・」と何時も思いながら死体と向き合う。

温暖化とブナの森

白神山地は温暖化の影響が現れており、研究者の話では、白神山地では、このまま温暖化が続くと、50年後100年後には、森の9割が失われる恐れがあると言われています。遠くから見ただけでは一見豊かに見えるブナの森も、ここ数年大きな異変が起きていると工藤さんは感じています。毎年、ブナの実を食べる害虫が大量発生しているのです。ブナの実は、三角の形をした爪の先程の小さな実ですが、栄養価が高く、味も良いのが特徴です。秋になると、小鳥やネズミ、サルなどが好んで食べますし、私たちも山へ入ったときは、おやつ代わりによく食べます。特にクマはこの実が大好きで、わざわざブナの木に登って食べるほどです。

平均寿命が約250年のブナは、育ちの早い木でも、50年経たなければ実をつけません。実をつけるようになると、3年から5年ごとに栄養を蓄えながら花を咲かせます。豊作の年には、1本のブナで2万個の種を落とすと言われています。

しかし、近年のように、実るまでに虫に食べられてしまうと、ブナは子孫を繁栄させようとして、その次の年も花を咲かせてしまいます。その繰り返しが8年くらい続いています。これを見ていると、私は、ブナが疲れて実をつけなくなってしまうのではないかと心配しています。また、周辺の栄養源もなくなってしまうのではないかと心配です。

影響はクマにも及んでいます。クマは、初夏に交尾をし、秋にたくさん食べて、栄養満点になると初めて受精卵が子宮に着床し妊娠します。しかし、ブナやどんぐりの実が不作だと、十分な食べ物が得られず、仔が産まれません。里に出てくるクマが多くなったのは、ブナの森に限らず、何か森に異変が起きている影響なのではないでしょうか。白神山地への影響をきっかけにして、皆さんの暮らしへの影響を想像してみてください。

年間でクマ何頭ぐらいうつのですか?

今は、鳥獣保護区(平成16年制定で平成25年までの時限立法)で3頭までと決められている。

昔は、神様の機嫌でうっていた。小さい熊も困るが、あまりにも大きな熊も困る(大きすぎると持って帰るのに大変だから)と祈ったことがあった。

神に祈りをささげるのには理由がある。以前、狩りをする前に湧水を飲んだ事があった。そしたら、5分も歩かないうちに、目の前に熊が横切った。湧水で水を飲んでいなければ、熊に出くわすことはなかった。このような偶然が重なるので、「神様の気分しだい」と言われる所以である。

「白神」という地名の由来…

世界遺産白神山地の名は、世界遺産になる前は「弘西山地」と呼ばれていた。ただ、世界遺産に登録された時に、林道建設反対運動の象徴となった弘西林道の名前では、おかしいという理由で、津軽地方の山岳信仰の中心にある岩木山信仰と絡めて、五穀豊穣祈願、民衆生活の安定を祈り、山岳信仰の象徴的存在となっている岩木山の民衆信仰の中にある津軽のオシラサマ信仰を、オシラサマの響きが何となく「白神」に通ずるということで、オシラサマはシラカミサマとなっていったと言われている。北海道渡島半島の「白神崎」にもオシラサマが祀られていて「白神」と「オシラサマ」の関連があると考えられる。また、日本の名山に数えられるものに富士山、立山とともに、加賀の信仰の山・白山(ハクサンシャクナゲ、ハクサンイチゲ、ハクサンシャジン等の植物の宝庫としても有名)がある。加賀の「白山」を津軽に見立てたことから、津軽の白山、いわゆる「白神」に発展していったのではないかという説も有力である。

白神はアイヌ語のシラーカムイから来ているという説ではシラー=岩 カムイ=神様という意味だそうです。

白神山地は、白神山脈と呼ばれない理由とは?

山地と山脈の使われ方の違いについて、国土地理院が使用している主要地名名称図では、次のように分類しています。

山地とは,地殻の突起部をいい、山地、山群、山系、山脈などのうち、最も一般的な呼称で、いくつかの山の集まりが一つのまとまりをなしている地域。山脈とは、山地のうち、特に顕著な脈状をなす地域。

高地とは、山地のうち、起伏はさほど大きくないが、谷の発達が顕著であり、表面のおしなべて平坦な地域。

山とは、「平地より高く隆起した地域」(広辞苑)で、特に高さが決められたものではありません。また、平地に住む人や守で仕事をする人にとっては,森林地域をそのように呼ぶこともあります。ですから、山の名前には「○○山」や「○○岳」のほか、「○○森」といったものもあり、高さによる制限はありません。

暗門の滝のいわれ

1796年初冬に暗門滝を訪れた紀行文として菅江真澄の『雪のもろ滝』があり、滝や樵の生活を描写している。「もろ滝」というのは、第3の滝は2つの急流が合体して、1つの滝として流れているためであり、菅江真澄は現在のように滝の下から眺めたのではなく、滝の上に通じる道がありそこから眺めたのではないかとする人もいる。菅江真澄は津軽藩にこの滝の見学を何度か要請しているが、その実現が真冬になったのは、当時この地区で津軽藩はケシを栽培しており、間者ではないかと疑われた菅江真澄を警戒したためだとも言われている。またこの滝は「安門の滝」とされていたが、一般人が観光目的で訪れないように、津軽藩は「暗」という文字を使い印象をおとしめようとしたとも言われている。

通常は、下流から第一~第三の滝と番号が付けられるが、この暗門の滝では逆になっている。それは、菅江真澄のように上流からたどるルートのせいとも言われている。

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